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メモ16 ボンヘッファー「10年後」(1942)


ボンヘッファー「10年後」(1942)
倉松功・森平太/訳 『ボンヘッファー選集〈第5〉抵抗と信従』 (新教出版社,1964年)より


 「愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である。」というのは、ボンヘッファーの有名な言葉である。原文では「愚鈍」となっていたが(不適切な表現であると思われたので)、私の個人的な判断により、(より分かりやすく、かつ適切と思われる)「愚かさ」「愚か」という語に変えさせていただいた。ご容赦願いたい。

(文中の下線  は、原文では傍点である。)
――――


    10年後


 10年というのは、どんな人の生活の中でも長い時間である。時間というのは、われわれが使用する宝の中で、一番取返しのつかない宝であって、そのために最も貴重なものであるから、われわれは、過去をふり返る度ごとに、時間を空費したのではないかという思いに襲われて不安になる。時間を空費したと言う場合、それは人間らしく生きることや経験を積むこともなく、習得することも創造することも楽しむことも苦しむこともなかった時のことを言うのであろう。空費された時というのは、満たされない、空虚な時のことである。過ぎ去った年月は確かにそのようなものではなかった。われわれは、多くの、測り知れないものを失いはしたけれども、時間を空費したことはない。なるほど、獲得された認識や経験は、事後に自覚されるものであって、それは本来的なものや営まれた生活自体の抽象に過ぎない。しかし、忘れてしまうことができるということがまさに一つの恵みであるように、記憶、つまり受け取った教訓の反復というものは、確かに責任のある生活にはふさわしいものである。私は以下において、現在共通の経験・認識としてわれわれに押しつけられているもののいくつかについて、自分で納得のいくように説明してみようと思う。それらは、個人的な経験ではないし、何も体系的な秩序を持ったものでもなく、議論や学説でもない。むしろ、人問的な事柄に関する領域内で、ある程度同じ心情を持っている人たちの仲間に共通に得られる経験である。それらは隣り合わせに並んでいて、具体的な経験によって初めてお互いのものになる。また、それらは決して新しいものではなく、確かに過去の久しい以前から知られていたものであるが、われわれに新しく経験し・認識されるために与えられたものである。その長い年月の間に保持された精神と生活の真正の交わりをことごとく感謝する気持が、一つ一つの言葉を伴うのでなければ、われわれはこれらのことについて書き記すことはできないであろう。

 足下に拠るべき大地なく

 今日のわれわれと同じようにこれほど足下に拠るべき大地のない人間――すなわち、可能な範囲にある現在のどんな二者択一も、一様に耐えがたく、生に逆らい、無意味なように思われて、この現在の二者択一を離れ、自分たちのカの根源を、過去のものや未来のものに徹底して求めながら、しかも、空想家にもならず、期するところが成功することを確信して、静かに待つことのできた人間――がかつて歴史上に存在したことがあるだろうか。いや、むしろ、ある時代の中の責任ある物の考え方をする人たちは、かつて歴史的な転機に際して、今日のわれわれのようには感じなかったのではなかろうか。それと言うのも、現在の二者択一には見られない何か真に新しいことが起こっていたからではなかろうか。

 誰が確固として立つか

 悪の一大仮面舞踏会が、一切の倫理的概念を支離滅裂の混乱におとしいれた。悪が、光・慈善・歴史的必然性・社会的正義といった形を取って現われると、われわれが伝統としている倫理的概念の世界から生ずるものは、全く混乱におちいる。聖書によって生きるキリスト者には、これこそ悪の底知れぬ罪業の証明にほかならない。
 最上の目論見を持ちながら単純にも現実を誤解して、支離滅裂におちいった世界を理性でもって再びつなぎとめることができると考える合理主義者たちの失敗は今や明らかである。彼らは、その不十分な視カで、あらゆる面を公正に取り扱おうとして、何一つ達成することもできないままに、相反発するカによってすり減らされる。彼らは、この世の非合理性に失望しながら、それに対して何もなしえないことで自分が責められていることを感じるが、そこで彼らは諦めて日の当たる場所から退場するか、無節操にもより強い方に屈服するかするのである。
 もっと哀れなのは、倫理的な熱狂主義がことごとく挫折して行くことである。熱狂主義者は、原理の純粋さは悪の力に対抗しうると考える。しかし、彼は牡牛のように、悪のカの担い手の代わりに、赤い切れに向かって突進するが、そのために疲れて倒れてしまう。彼は非本質的なものに巻きこまれて、もっと利口な者の前に屈服して行くのである。
 良心のある者は、決断を迫る危機的な状態の圧倒的なカから身を守ろうとして孤独な戦いを戦う。しかし彼は、自分自身の良心からよりほかには決して助言が与えられず、支持も受けないで選択しなければならないために、その戦いがあまりにも大きすぎてズタズタに引き裂かれてしまう。彼に近づいて来る悪の上品で魅惑的な無数の変装が、彼の良心を不安にし・不確かにするために、彼は良い良心の代わりに言いのがれをする良心を持つことで結局満足することになり、そして遂には、絶望をまぬがれるために自ら自分の良心を欺くに至る。それと言うのも、良心だけに自分の拠り所を置こうとする人間は、悪しき良心の方が自分を欺く良心よりも救いと力になるということを理解できないからである。
 取りうる決断が戸惑うほどに多いことから、義務という確かな道が選び出されて来るように思われる。そこでは、命令されることが最も確かなことと考えられるし、命令に対する責任は命令する者にあって、それを実行するものにはないのである。しかも、自分の行為の枠を、その義務に見合った枠に限定するならば、本当に自分自身の責任において勇敢に行為がなされるということは、決して起こらない。(しかし、そのような自分自身の責任による行為のみが、悪に真正面からぶつかり、かつそれを克服することができるのである。)遂には、義務を負った人間は、その義務を悪魔に対してもまた果たさなければならなくなって行くのである。
 しかし、最奥の自己の自由においてこの世の義務を果たそうとする人、不可避な行為に自己の良心とその呼び声の純粋さよりも高い価値を置く人、効果のない原則を効果のある妥協のために、効果のない中庸の知恵を効果のある過激な行動のために、犠牲にする用意のある人は、自分の自由が自分を滅ぼさないように用心している。彼は、悪の中に喜んで身を投じて、それ以上の悪を防ごうとする。ところがその場合、避けるつもりのさらにいまわしい悪そのものが、より良いことであったとしても、もはや彼はそれを認めることができない。ここに、もろもろの悲劇の原素材があるのである。
 誰も彼も社会的対決から逃がれ、私的な徳行という隠れ場を手に入れる。しかし、彼は、彼を取り巻く不正に対してその目も口も閉じなければならない。自己欺隔という代価を払うことによってのみ、彼は責任ある行動のゆえに手を汚すことから免かれて、わが身を清く保つことができるのである。彼がどんなことをしても、しないで置いたことが彼を落ち着かせないであろう。彼はこの不安のために破滅するか、それともパリサイ人の中でも最も偽善的なパリサイ人になるであろう。誰が確固として立つであろうか。
 それは、人間の理性、原理、良心、自由を究極の規範とせず、信仰において、神にのみ結びつき、従順な・責任ある行為をなすべく召しをうけるならば、それら一切を犠牲にする用意のある人間、その生活が神の問いと呼び声に対する答え以外の何ものでもあることを望まない責任的な人間だけである。そのような責任的な人間はどこにいるのであろうか。

 市民的勇気とは

 市民的勇気の欠如を嘆く訴えの背後に、一体何が潜んでいるのであろうか。近年われわれは、多大の勇気や犠牲的行為を見た。しかし、市民的勇気というものはほとんどどこにも見られなかった。われわれ自身にもそれはなかった。この欠乏を単純に人間の怯惰のせいにするのは、あまりに素朴な心理学であろう。その背後にひそむ理由は、決してそんなものではない。われわれドイツ人は、長い歴史にわたって、従順の必要性とその力とを学ばなければならなかった。われわれは、個人的な希望や思想をわれわれに与えられる使命に従属せしめることが、生活の意味であり・偉大さであると考えて来た。われわれのまなざしは、奴隷の恐怖においてではなく、使命の中に職業を、職業の中に召命を見る自由な信頼において、上に向けられていた。それが自分自身の心に対する正当化された不信頼の一部分となり、そこから、自分自身の判断よりも「上」からの命令に喜んで服従する用意があるということが生じて来た。ドイツ人が従順に、召命を受け・使命を感じて、最悪の事柄をも勇敢に生命を賭して実現して来たということについて、誰が反対しようとするであろうか。しかも、ドイツ人は、全体への奉仕において、恣意から己れを解放しようとすることによって、自由を守ってきた――ルターから観念論哲学に至るまでのドイツにおけるよりも熱心に、世界のどこで自由について語られたことがあろうか。ドイツ人にとって、召命と自由とは同じ事柄の二つの面を意味していた。しかし、そのためにドイツ人はこの世界を誤解したのである。すなわち、使命のために服従し、生命を賭する用意があるということが、悪に誤用されることもありうるということを、ドイツ人は考えなかったのである。そのような誤解が起こると、召命の遂行それ自体が疑問になり、そのためにドイツ人のすべての道徳的根本概念は動揺におちいらなければならなかった。その上、ドイツ人には、自由で責任ある行為は必然的に召命や使命にも逆らうものであるという根本的な認識が欠けていたということが、明らかにならねばならなかったのである。そのような認識の代わりに、一方では無責任な無良心が、他方では決して行為にならない自虐的な良心の阿責が現われた。ところで、市民的勇気は自由な人間の自由な責任性からのみ生まれる。ドイツ人は、今日初めて自由な責任とは何であるかということを発見し始めている。その自由な責任とは、責任ある行為がなす自由な信仰の冒険を求め、そのために罪を犯す者となる人間に赦しと慰めとを約束し給う神に基づくものである。

 結果について
 
 結果は不正な行為や非難すべき手段も正当化するということは、決して真実でない。しかし、結果を何か倫理的に全く中立なものと考えることも、同様に真実でない。歴史的な結果が、その後に及ぶ生の唯一の基盤を創造するということも同様である。しかし、一人のドン・キホーテを登場させて新しい時代に対抗させることと、自分自身は敗北したと告白して、結局は新しい時代に対する自由な同意から新しい時代に奉仕することと、そのどちらが倫理的に責任を取ることになるのかということは、その場合でもなお問題である。究極的には結果が歴史を造る。しかも、歴史を造る人々の理解を越えて、歴史の支配者が常に繰り返し悪から善を創造しているのである。結果の倫理的意味を単純にも無視することは、非歴史的に、すなわち無責任に物を考える原則論者の短絡というものである。それ故、一度われわれが、無理矢理にでも結果の倫理的な問題に真剣に対決せしめられるのは良いことである。善が成功する限り、結果は倫理的には重要ではないと考えるという贅沢が許されよう。しかし、一度悪い手段が成功を博すると、問題が生じる。そのような事態に直面してわれわれは、純理的傍観的批判や、自己を正しいと主張しようとすること、従って事実の上に立つことを拒絶することも、機会主義、すなわち、結果を前にして自己を放棄したり降服したりすることも、われわれの使命にふさわしいことにはならないということを経験している。われわれは、軽蔑される批評家にも、機会主義者にもなろうとは思っていないし、またそれは許されない。むしろわれわれは、その都度その都度、あらゆる瞬間に、勝利者としてであれ、敗北者としてであれ、歴史的形成に共同の責任を取る者でありたいと願うし、またそうあることが許されているのである。歴史の進行に対する共同責任が神から課せられていることを知っているゆえに、何かの出来事に左右されてその共同責任を免かれようとすることのない者は、非生産的な批判や、それと同じく非生産的な機会主義を越えて、歴史的事件に対する生産的な関係を発見するであろう。不可避な敗北を前にして、英雄的な破滅について語ることは、根本的には極めて非英雄的なことである。それは、あえて将来を望み見ようとはしないからである。究極的な責任を取る問いは、どのようにして英雄的に事件から引きさがるかという問いではなくて、次の世代はどのように生存を続けて行くべきであるかという問いである。このように歴史的に責任をとる問いから初めて――たとえしばらくは大変屈従的な解決であっても――生産的な解決が生じるであろう。要するに、ある事柄を原理的に貫き通すことの方が、具体的に責任を取ることを最後までやめないことよりもはるかにやさしいのである。若い世代は、行為がただ原理からなされているか、それとも生き生きとした責任からなされているかどうかについて、常に最も確かな感覚を持っている。

 愚かさについて

 愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、万一の場合には、これを力ずくで妨害することができる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残して行くことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている。愚かさに対してわれわれは無防備である。これに対するに、抗議をもってしても、力をもってしても、何の役にも立たない。理由をあげることが無意味なのである。自己の先入観に矛盾する事実を単純に信じる必要はない。――この場合、思かな者は批判的になる。その事実が不可避のものであっても、それは単純に無意味な特殊な出来事として排除しうるのである。その上愚かな者は悪を行なう者と違って自分に十分満足している。のみならず、実際愚かな者は、簡単に興奮して危害を加えるようになるために、なおさら危険なものになる。それ故、悪人よりも愚かな者に対してより多く注意するように要求されるのである。われわれは、理由をあげて愚かな者を説得しようとしないであろう。それは無意味であり、危険である。
 この愚かさと関わりを持ちうる方法を知るためには、われわれはこの愚かさの本質を理解しようとしなければならない。この愚かさが本質的には知的な欠陥ではなくて人間的な欠陥であることだけは、確かである。愚かではあるが、知的には非凡なほど活動的な人間がおり、愚かさとはおよそ別ものでありながら、知的には全く鈍重な人間がいる。特定の状況に臨んでこのような発見をする時、われわれは驚駭(きょうがい)する。しかも、愚かさは生まれながらの欠陥であるという印象よりも、人間は特定の状況の下で愚かにされる、つまり、自ら愚かとなるに任せるという印象の方が強い。その上われわれは、社交性のある、もしくはあると考えられる人々およびその集団よりも、閉鎖的に・孤独に生きている人たちの方が、この欠陥を示すことが少ないと見る。このように、愚かさは心理学的間題であるよりもむしろ社会学的問題であるように思われる。愚かさは、歴史的状況が人間に与える作用の特別な形態であり、特定の外的関係の心理的随伴現象である。もっと厳密に観察すれば、政治的なものであれ宗教的なものであれ、強力な外的権力の展開が、大部分の人間を圧してこれを愚かにするということが明らかになる。実にそれは、社会学的―心理学的法則であるように思われる。ある者の権カが他の者の愚かさを必要とするのである。その場合に起こることは、一定の――従ってある程度知的な――人間の素質が突然萎縮したり生成がとまったりするということではなく、力が勢いを振っているという圧倒的な印象によって人間からその内面的な自立性が奪われるということ、また、人間がその結果として生じる生活状況に対して自分の取るべき態度を発見することを――多かれ少なかれ無意識的に――諦めるということである。愚かな者はしばしば頑固であるからと言って、そのような者が自立的でないということを見逃すことは許されない。愚かな者と話していると、彼自身、すなわち彼の人格と関わりを持っているのではなくて、彼に対して力を振っているスローガンや合言葉などに対しているような感じを受ける。愚かな者は捕われており、盲目になり、彼自身の本質が悪用され誤用されている。愚かな者は、意志のない道具のようになってしまっているために、どんな悪も働くことができると同時に、悪を悪として認めることが不可能になっている。愚かさが悪魔的に悪用される危険はここにある。それによって人間は永遠の滅亡の審判を受けるかも知れない。
 しかしまさにこの点でも、啓蒙活動ではなくて、解放の行動だけがこの愚かさを克服できるということは全く明白である。その場合、真の内的解放はほとんどの場合、外的な解放が行なわれた後に初めて可能であるということが、十分に理解されていなければならないであろう。それまではわれわれは、愚かな者を説得しようという一切の試みを断念しなければならない。さて、こういう事情であるから、現今のような状況の下では、われわれが、「民衆」は本来何を考えているかを知ろうとしても、また同時になぜそのような問いは責任ある考えや行為をする者にとっては――とにかくこれは現在の事情のもとに限ってではあるが――余計であるかを知ろうとしても無駄であるということを、われわれはよく理解できる。神を恐れることが知恵の初めであるという聖書の言葉(詩[篇]111・10)は、人間を内面的に解放して神の前で責任ある生活をさせることが、愚かさの唯一の現実性のある克服であるということを語っている。
 ところで、愚かさについてのこのような考えは、それ自身としては、それが大部分の人間をどんな場合にも愚かなものとみなすことを許さないという、慰めに満ちたものをもっている。問題は実際、権力掌握者が、人間の愚かさと、内的自立性および賢明さと、そのどちらにより多く望みをかけているか、ということになるであろう。

 人間蔑視?

 われわれを人間蔑視に追いやる恐れは極めて大きい。われわれは、人間を蔑視する権利をもっていないということ、しかも、それによって人間に対する最も非生産的な関係におちいるということを、十分に知っている。われわれを人間蔑視の誘惑から守ることができるのは、人間蔑視によってわれわれはまさに敵の最大の誤謬のとりこになるという考えである。人間を蔑視する者は、人間から何かを造り出すことは決してできないであろう。ほかの者を蔑視することから、われわれ自身は全く無縁ではない。われわれは、自分自ら進んで行なうよりも、ほかの人から期待することがどんなに多いことであろう。なぜわれわれはこれまで、人間について、その誘惑や弱さについて、こんなに冷静にならないで考えたのであろうか。何をなすか、何をなさないかということよりも、何を悩んでいるかによって人間を判断することを、われわれは学ばなければならない。人間に対する――ほかならぬ弱い者に対する――唯一の生産的な関係は、愛、すなわち、その人と交わりを持とうとする意志である。神御自身は、人間を蔑視されないで、人間のために人となられたのである。

 この世に内在する義

 悪は愚かで無目的なものであるということが――しばしば突然短時間のうちにではあるが――明らかになることは、最も驚くべき、しかも反対しえない経験である。これによって考えられることは、各個の悪い行為は罰がすぐ後について行くということではなくて、世上に言うこの世的白己保存の利益の打算から神的戒めを原理的に廃棄することはまさにこの自己保存に固有な利益をはばむということである。われわれに与えられるこのような経験は、いろいろに解釈されえよう。いずれにしても、人間の共同生活の中にはいろいろなおきてがあり、しかもこれらのおきてはそれよりも自らが重要だと信じる何ものよりも強カであるということ、またこれらのおきてを軽蔑することは、不当であるだけでなく、賢明でないということが、われわれの経験によって確かに明らかになるように思われる。ここから、なぜアリストテレス的トマス的倫理が叡知を主要な徳の一つにあげたかということが、理解されるようになる。叡知と愚かさとは、新プロテスタント主義の心情倫理がわれわれに教えようとしたように、倫理的にはどちらでもよいものではない。賢い者は、具体的なものと自分の中にあるいろいろな可能性とを豊かにもちながら、同時に、人間の共同生活に存続しているおきてを通してあらゆる行為に与えられている、越えるべからざる限界を認識する。そして、この認識によって賢い者は善を行なう、あるいは善人は賢くふるまうのである。
 ところで、歴史上重要な行為の中で、かつてこのおきての枠を再三にわたって越えなかったものは確かに何もない。きめられた枠をそのように越えることが、原理的にその限界の廃棄と理解され、それ故それが特殊な法と称せられるかどうかということ、あるいは、この違反はやむをえない科(とが)であるかもしれないと引き続いて自覚され、しかもこの違反がおきてとその枠がやがて再建され・尊重される時にのみ義として認められるものであると考えられるかどうかということは、決定的に違いのあることである。政治的行為の目的として法の回復が考えられ、むき出しの自己保存は単純には政治的行為の目的とは考えられない時には、自己を偽ることを決して必要としない。究極的なおきてと生活の権利とを基本的に尊重することが同時に自己保存に最も役立つように、またいろいろなおきては全く短い一度限りの、特殊な場合にはやむをえない遠反を是認するように、そのように単純にこの世は出来ている。ところが一方ではそのおきては、苦しまぎれに原理を造り出して、そのおきてと並んで自分自身のおきてを設定する人を、早晩――しかも反抗し難いカをもって――打ち砕くのである。歴史に内在する義はただ行為に報いたりこれを罰したりするのみであり、神の永遠の義は心を吟味し、かつ裁くのである。

 歴史における神の支配に関する二、三の信仰個条

 神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる。そのために、すべてのことが働いて益となるように奉仕せしめる人間を、神は必要とし給う。私は、神はいかなる困窮に際しても、われわれが必要とする限りの抵抗力を、われわれに与え給うと信じる。しかし、神はその力を前もっては与え給わない。それは、われわれが自分自身にではなく、神のみに信頼するためである。このように信ずれば、将来に対するすべての不安は克服されるに違いない。私は、われわれの過失も誤りも空しくはないということ、また、神は、そのような過失や誤りを、われわれが善い行ないであると考えることを受け入れて下さる場合よりももっと快く受け入れて下さるということを信じる。私は、神は決して無時間的な運命ではなく、誠実な祈りと責任ある行為とを期待し給い、そしてそれらに答え給うと信じる。

 信頼

 裏切りの経験を持っていない者はほとんどない。以前には理解し難かったユダの姿は、もはやわれわれに無関係ではあるまい。そこでわれわれが生きている空気は不信頼によって毒され、われわれはそのためにほとんど死滅しているほどである。しかし、この不信頼の層をわれわれが突破したところで、これまで全然気づかなかった信頼するという経験を得ることが許された。われわれは、信頼する時に、ほかの者にわれわれの生命をゆだねることを学び知った。すなわち、われわれは、われわれの行為と生活とがさらされなければならなかったどのような暖昧さにも抗して、際限なく信頼することを学び知ったのである。このようにわれわれは、常に冒険であるがしかし喜びをもって肯定することのできる冒険であるこのような信頼においてのみ、生きかつ働くことが現実になされるということを理解する。われわれは、不信頼を蒔き、かつそれを助長することは最も非難さるべきことであり、できるだけむしろ信頼が強められ・促進さるべきであると理解する。信頼は、今後もわれわれにとって、人間の共同生活の中で最も偉大な・最も稀な・最も幸いな賜物の一つであろう。しかしそれは常に不信頼という不可避な暗い背景を負ってしか成立しないであろう。われわれは、ならず者には一歩たりとも譲らず、しかし、信頼する価値のあるもののためには余すところなく自分をゆだねることを、学び知ったのである。

 質の感覚

 人間と人間との間の隔たりについての正しい感覚を回復し、そのために自分自身戦う勇気がなければ、われわれは人間の価値の一種の無政府状態の中で破滅するであろう。人間の間のあらゆる隔たりを軽蔑することをその本質とする厚顔さは、まさに大衆の特徴であるが、それはちょうど、内面の不安、厚顔な者の好意を売り物にしたりそれを追い求めたりすること、および自分を大衆の境涯に身をおとすことなどが自分を大衆化する道であるのと同様である。自分に負い目があること、および他人に対して負い目があることをもはや知らない時には、すなわち、人間の質についての感覚と隔たりを保持する力とがなくなるところには、混沌が間近に迫っている。厚顔が近づくのを物質的な安逸のために甘受する時、既に人は自己を放棄している。すなわち、その場合、人はそれによって守られている堤防を取り払って、その代わりに混沌の洪水を起こさせ、人間全体に対して負い目のあるものとなってしまっているのである。ほかの時代であれば、人間の平等性について証しすることが、キリスト教の核心であろう。今日は、ほかならぬキリスト教は、人間の間の隔たりと人間の品位とを尊重することに情熱をもって味方すべきであろう。自分自身の事柄のために行為しているという誤解、非社会的な志向を持っているという正当な嫌疑を、甘受しなければならない。それは、秩序に対する大衆の相も変わらぬ非難である。この点に関して弱気で不安になる者は、問題がどこにあるか理解できない。いや、その上、そのような者にはこれらの非難が正当なものになるであろう。われわれは、すべての社会層がこのように大衆化する過程のさ中にいる。それと同時に、既存のすべての社会層出身の人々を結び合わせる新しい貴族的態度の誕生する時にわれわれは際会しているのである。貴族は、犠牲によって、勇気によって、自分自身に対する負い目が何であり、他に対する負い目が何であるかを明瞭に知ることによって、また、下に対する敬意と同様に上に対する敬意をも明らかに持ちつづけることと並んで、自分自身にふさわしい敬意をいだくことによって生じるし、またそうすることによって貴族であり続ける。問題は、全く知られない質の体験の再発見、すなわち、質を基礎とする秩序に関わっている。質はあらゆる種類の集団化の最大の敵である。質は、社会的には、地位の追求の放棄、あらゆるスター礼讃との絶交、上と下への自由な観察、特に親しい友人仲間の選択に関する事柄、社会生活への勇気と同様に隠れた生活の喜びを意味する。質の体験は、文化的には、新聞とラジオから書物への、性急から余暇と静寂への、分散から集中への、センセーションから熟考への、気取りの理想から芸術への、俗物根性から中庸への、無節度から節度への復帰を意味する。量は空間を奪おうとして相争い、質は相互の欠陥をみたす。

 共に苦しむこと

 たいていの人間は自分で身をもって経験して初めて賢くなるということを忘れてはならない。この点から、第一に、あらゆる種類の予防行為がたいていの人間にはできないという驚くべきことが明らかになる――人は、まさに自分で危険を手なずけることができると信じているが、それができないと分った時にはもう遅いのである。第二に明らかになるのは、他人の苦しみに対する無感覚である。禍いが恐怖を与えながら接近して来ることに対して増大する不安に比例して、同情が湧くのである。この態度を是認するために、多くのことを人は口にする。それは、倫理的な口実で、例えば運命の回転にブレーキをかけたくないとか、行為への内的召命と力とは出現した危急によって初めて創造されるものであるとか、人はこの世のすべての不正と苦しみとに責任を取ることはできないし、その上、世界審判者を潜称したいとは思わないと言う。また、心理的に弁護して、想像カ、感受性、内面的敏捷さの欠乏は、確固たる冷静さ、自由な労働力、豊かな忍耐カによって補われると言うのである。キリスト教的に見れば、そこには心の豊かさが欠けていることが決定的であるということに対して、これらすべての弁護は言い逃れができないということになるのは、言うまでもないであろう。キリストは、御自分の時が来るまでは苦難を避け給うた。しかし、その時が来ると、彼は自由に苦難を迎え、これを捕えて克服された。キリストは、あらゆる人間のあらゆる苦難を、御自分の苦難として身をもって経験されたと聖書は言っているが――それは理解し難いほど高貴な思想である!――キリストは苦難に身をゆだねて自由であり給うた。確かにわれわれはキリストではないし、自己の行為・自己の苦難によって世界を贖うようにと召しを受けているのではない。われわれは不可能なことを身に負うべきではないが、それを担うことができないということを苦しむべきである。われわれは歴史の主ではないが、歴史の主の御手の中にある道具である。われわれは、ほかの者の苦しみを、実際には全く限定された枠の中でのみ、共に苦しむことができるだけである。われわれはキリストではない。しかしわれわれがキリスト者であろうとするならば、それは責任ある行為においてキリストの心の豊かさにあずからねばならないということを意味する。その責任ある行為とは、自由に時間を利用して、危険に立ち向かい、不安からではなく、自由を与え・罪を贖うキリストの愛から、すべて苦しむ者に向かって湧き出る真正の同情を負うものである。行為の伴わない期待と愚鈍な傍観とは、決してキリスト教的態度ではない。行為と共に苦しむことへとキリスト者を促すのは、先ず自分自身が出会う体験ではなく、そのためにキリストが苦難を受けられた兄弟たちの身にふりかかっている体験である。

 苦難について

 人間の命令に服して苦しむ方が、自分自身の責任による行為の自由において苦しむよりも無限にはるかに容易である。共同で苦しむ方が、隔絶された中で苦しむよりも無限にはるかに容易である。社会的に賞讃されながら苦しむことの方が、独りで、はずかしめを受けて苦しむよりも無限にはるかに容易である。身体的生命を危険にさらされて苦しむ方が、精神によって苦しむよりも無限にはるかに容易である。キリストは、自由に、隔絶された中で、孤独において、はずかしめられながら、肉体と精神とで苦難を受けられた。それ以来、多くのキリスト者は彼と共に苦しんだ。

 現在と未来

 職業の上で、また個人的に、生活設計を立てることができるということは、これまで人間の生活上譲渡しえない権利の一つであったようである。これは過去のことになった。すなわち、われわれは四囲を取り囲む状況の力によって、「あすのことを思いわずらう」(マタイ6・34)ことを諦めねばならない事態に立ち至らしめられている。しかしこの場合、その諦めが、山上の説教の意図している信仰の自由な態度から生じているか、それともそれがその瞬間瞬間強制される賦役として生じているかどうかということは、本質的に達う。未来の設計を強制的に断念せしめられることは、たいていの人間にとって、無責任な・無思慮な、さもなければ諦めの刹那主義におちいることを意味する。ある人たちは美しい未来を憧れてなお夢を見、それによって現在を忘れようと試みている。われわれには二つの態度とも同様にありえない。われわれに残っているのは、大変狭い、ある場合にはなお恐らく見いだすに困難な道、すなわち、日々をそれが終末の日であるかのように受け取り、しかも信仰と責任において輝かしい未来がなおあるかのように生きる道だけである。エレミヤは、聖なる都の崩壊の直前に、全面的な未来の喪失を前にして――禍いの予言に甚だ矛盾することだが――「この地で人々はなお家と畑とぶどう畑を買うべきだ」(エレミヤ32・15)という、新しい輝かしい未来の神的徴と担保とを告知せざるをえなかったのである。来たるべき時代を見やりつつ思索し・行動すること、その場合、恐れと憂いなしに日々 を過ごす用意が出来ていること、それが現実にわれわれに要求されている態度であり、毅然として保ち貫くことは容易ではないが、持たなければならない態度なのである。

 楽観主義

 悲観主義的である方が、生活設計を立てることができるということは、むしろ賢明である。なぜなら、失望は忘れられ、人前で物笑いになることはないからである。それ故、賢明な人の場合、楽観主義は厳しく禁じられている。楽観主義は、その本質上現在の状況は一切顧慮しない。それはむしろ、一個の生命力であり、ほかの者が断念した時に希望をいだくカ、すべてが失敗したと思われる時に頭を高く上げて保つカ、反動に耐える力、未来を決して敵に譲り渡さないでそれを自分のものとして要求する力である。確かに、愚かで臆病な楽観主義というものがある。それは厳しく禁じられねばならない。しかし、未来への意志としての楽観主義は、たとえそれが幾度誤ろうとも、軽蔑すべきではない。なぜなら、それは病人に冒されることのない生命の健康さであるからである。より良いこの世界の未来を望むこと、またそのような未来のために準備をすることは不真面目だと考える人たちや、それが不信仰だと考えるキリスト者がある。彼らは、混沌、無秩序、破滅を現在の現象の意味と信じて、もしくは、生命の保存・新しい建設・次代の人々に対する責任から逃れて、諦めもしくは敬虎をよそおったこの世からの逃避に日を送っている。終末の日が明日突然来るということであれば、われわれは喜んでよりよき未来のための仕事を放棄しよう。しかし、それまでは、そうしようとは思わない。

 危険と死

 近年われわれは、死についての思想にますます親しくなってきた。われわれは自分たちと同じ世代の人々の死についての知らせを受ける際の平静さにわれながら驚いている。われわれは死をもはやそれほど憎むことはできない。われわれは、何か善であるものを死の特徴として発見し、その結果死とほとんど和解したのである。根本においてわれわれは、確かに、自分たちは既に死に所属し、新しい日々はどれも奇跡であると感じている。どんなことがあっても起こさせてはならないあの倦怠を、たとえ誰一人として知らないものはないにしても――われわれは喜んで死ぬる、と口にするのは確かに正しくない。われわれは、死に対しては好奇心を持ちすぎている。あるいはいくらか真面目に言えば、われわれは、この混乱した生活になおいくらかの意味をすすんで認めたいのだ。われわれはまた死を英雄化しない。死に比べれば、われわれにとって生はあまりにも偉大で高価であるからだ。そうして初めてわれわれは、危険にさらされて生の意味を知ることを拒絶する。そのためにわれわれは、絶望におちいることはなく、生の賜物について十二分に知っている。また、生の不安をも余計によく知り、引き続く生の危険が他に破壊的な影響を与えることも、ことごとく知っているのである。われわれはやはり生を愛する。そして私は、もはや死はわれわれをひどく驚かせることはないと信じる。われわれは、死がわれわれにとって偶然でも突然でもなく、本質的なものからの分離でもないことを望み、生の充実において全カを傾注してこれに出会うことを望むわれわれの希望を、戦争を体験して以来もはやほとんどあえて告白しようとしない。その死をありのままのもの、すなわち自発的な合意の死とするのは、外的状況ではなくて、われわれ自身である。

 われわれはまだ役に立つのだろうか

 われわれは悪行の無言の証人であった。われわれはすっかり悪に馴れっこになってしまった。われわれは偽装術や暖昧な言い方を習得した。われわれは、経験のおかげで人間不信におちいり、人に真実と自由な言葉とをしばしば語らないままでいなければならなかった。われわれは負い切れない戦いによって疲れ果て、いやそればかりか多分シニカルになってしまったようである――それでもわれわれはまだ役に立つのだろうか。将来は、天才でなく、皮肉家でなく、人間軽蔑家でなく、老獪な策士でなく、素直な・単純な・正直な人間が、必要とされるであろう。素直さと正直さに至る道を再発見するに十分なほどに、われわれにのしかかって来るものに対するわれわれの内的抵抗力が強くなり、自分自身に対する誠実公明さが仮借ない厳しさを持ちつづけることがあるであろうか。


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