片山貴夫のブログ

岡山から発信します。

ブログを再開したいと思います

  個人的な事情から中断していたブログを再開したいと思います。

 私たちの批判に対し『週刊金曜日』は、ますますその転向を居直るようになっています。
『金曜日』第703号( 2008年05月23日)に掲載された佐高信のコラム 「両論併記の無責任」それ自体は、まったくその通りで正しいと思います。しかしながら、「ひとのことがいえるのか!」という批判は免れないでしょう。「護憲」を装いつつ佐藤優を重用している『金曜日』そのもののことですから。
 金光翔(キム・ガンサン)さんも指摘しているように『金曜日』は第666号 (2007年08月10日)で、「従軍慰安婦」問題について立場が全く相反する佐藤優と梶村太一郎を両論併記しています。
 <無責任な両論併記>ではないと、『金曜日』編集部がいうのであれば(責任ある両論併記?)、価値観の機軸が(私たちの想像とは)別のところにあるということでしょう。
 つまり、「インテリジェンス」と呼号する佐藤優のような、国家の目線でモノをみる価値観(実質的に解釈改憲を志向)がいつのまにか機軸になっているから、矛盾を感じなくなっているのでしょう。
 『金曜日』第714号(2008年08月08日)では

「これまで自衛隊の装備に関する議論と言えば「高価な戦車を購入するくらいなら福祉に回せ」という議論のすり替えに終始してきた。旧社会党や共産党などの革新勢力は国防予算をはなから不必要なものと決めつけていた」(P36.ムダな兵器 要らない装備)

という「軍事ライター」の発言が掲載されるようになりました。
 「議論のすり替え」と軽く決め付けて戦後憲法的価値観に対し平然と唾する、<効率的に戦争をしろ>というような<議論>が『金曜日』でも展開されるようになりました。
        あたらしい憲法のはなし
 2008年08月は『金曜日』の頽廃がまた一段階進行したようです。
 戦後憲法的価値観に平然と唾する『金曜日』の関係者(佐高信など)を、市民運動が講師としてよぶことは、もう止めるべきだと思います。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
両論併記の無責任(佐高 信)

 ある地方紙が天皇の戦争責任について、「ある」と思うという意見と、「ない」と思うという意見の双方を載せた。典型的な両論併記である。
 それが掲載されてから、「ある」というコメントを出した人の家に右翼が押しかけた。しばらく大変だったというが、その新聞社には何事もなかった。いわゆる「中立」を保ったからか。それにしても、これほど無責任なことはないだろう。新聞は己れの意見を持たない“貸席業”なのか。
 物の見方に「不偏不党」や「公正中立」はありえない。それがあると錯覚して、いや、ないとは内心思っているけれどもタテマエとして掲げているところに今日のメディアの限りない堕落がある。
 メディアがそんな蜃気楼をチラチラさせていると、読者も「中庸第1」と軟弱化してくるのか、いささかならず頼りない現象が出来している。『サンデー毎日』の連載を中心に私は毎年、毎日新聞社から時評集を出しているが、一昨年のそれのタイトルを『田原総一朗よ驕るなかれ』とつけた。そして、昨年の『石原慎太郎の老残』に続く今年のタイトルが『田原総一朗への退場勧告』である。ところが、同じく題名に田原の名前を出した2冊を比較すると、圧倒的に『驕るなかれ』の方が売れゆきがいい。「たしなめる」のはいいけれども「退場勧告」は行き過ぎではないかということなのかもしれない。実際、同じく『サンデー毎日』にコラムを書いている岩見隆夫からはそうした注文をつけられた。これも「両論併記の無責任」の影響と言ったら、言い過ぎだろうか。
 珍妙なのは、その変形のような「加憲」である。公明党がそれを旗印としている。「護憲」でもなく、「改憲」でもなく、「加憲」とは、思わず吹き出してしまう話だ。学級会や生徒会でも、自らの立場をはっきりさせて議論するだろう。それをしないで議論しても、政治に参加する意味はない。
 私は公明党を“両棲類”のコウモリ党と揶揄しているが、一部分は「護憲」で、一部分は「改憲」ということなのか。日本人を蝕んでいるのは中途半端という病気だと喝破したのは、むのたけじだったか。まさに、メディアの公明党化が進行している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スポンサーサイト

Menu

プロフィール

片山貴夫

Author:片山貴夫
sihen45@yahoo.co.jp

最近の記事

最近のコメント

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索